|第8回|鈴村直さん<NPO法人恵那市坂折棚田保存会>

自分で住んどるところ、耕作しとるところは愛着ができるもんだでさ。
なんとかこの景色をいつまでも残せたらっていう思いはあったわな。

 

鈴村直
●鈴村 直さん(すずむらなおし)
昭和12年生まれ。NPO法人恵那市坂折棚田保存会

400年続く田園風景。
岐阜県恵那市中野方町には、日本の棚田百選にも認定された「坂折棚田」という美しい景観が広がっています。
今から約400年前、戦国時代から江戸時代に入るころから築かれはじめ、明治初期には現在の形になったと言われている坂折棚田。石積みのあぜが特徴で、「黒鍬(くろくわ)」と呼ばれる石工集団によって築かれました。

坂折棚田

1999年に坂折棚田保存会が発足し、2003年には全国棚田サミットもこの地で開催。
オーナー制度石積み塾、農業体験などを通して、地域全体で保全と中山間地域の活性化に取り組んでいます。

何百年と続く景観。

そこには当然、何百年もの間、代々土地を受け継ぎ耕し守ってきた人たちが存在します。
NPO法人恵那市坂折棚田保存会メンバーである鈴村直(すずむらなおし)さんもそのひとりです。

昭和12年生まれ、今年で78歳。
今年の稲刈りも終わり、ずいぶんと日が沈むのが早くなった坂折の茶屋で、
ゆっくりゆっくりと、これまでの人生やお米作りについてお話ししてくださいました。

—— 鈴村さんは、ずっと中野方の方ですか?

「うん、そうや。地元、坂折が。
ここで生まれて、ここで育って。同じ景色ばっかし見とる。ははは!」

—— 変わりましたか?

「景色は変わっとるけど、変わったって意識はないね。」

—— 何年くらいここでお米作りをされているんでしょう

「専業農家ではけどな。
でも子どものころから、ずっと田んぼやら山仕事やらをやってきとるね。
一番食料の無いときでね。何にも物の無いときだったから。
田んぼの耕起は、牛を連れて行っちゃぁやっとった。

家に牛を飼っとってさ、すごい大きい牛でさ、それを田んぼに連れて行ってやっとったわ。
物がなかったから、田んぼも山の草を刈って、それを田んぼに背負ってきて入れてやっとったわけ。家はこの坂折の向こう側(山を越えた側)やったから、家からは登って降りてここへ来て仕事して、帰りはまた上がって。もう背負ってばっか。そやもんで、食うもんもあんまり食わずにそんなことしとったで、あんまり背が伸びんようになっちゃったわ。」

—— でも、丈夫でいらっしゃる。

「当時はさ、耕作面積がすけない(少ない)、地主に年貢も収めないかんかったし、今ほど収穫量もなかったから、取れた半分くらいはそれで出いちゃわなかん。ほんとに、わずかしか残らんもんで、麦をとったり芋を作ったり、そいから山へ行って「リョウブ」っていう木の葉を採って、それをかさ増やしにして食べとったわけ。もういっつもかも腹が減っとった。6人兄弟の長男やったもんで、仕事はせないかんわ、面倒はみなかんわ、腹は減るわでね。(笑)」

—— 戦時中、戦後の厳しい時代だったんですね。農業と共に、どのような生業をされていたんでしょう?

「親父が山の仕事、わしらが小さいことは炭焼きをやりょうったでね、この辺の人らはみんな。副業として現金収入が唯一炭焼きやったわけ。だんだんだんだん、あれやね、液体燃料とか、そいうものが入ってくるようになって。最初はたきぎとかを作って、陶器商やとかそういうところへ売りょおったわ。昔は薪で陶器を土岐津やあっちの方は焼きょおったでね。

けどもそれがダメになってきて、今度は材木商で、木を伐ったりして売っとったわけやね。わしもしばらくは手伝よおったけども、20歳くらいのころやったかなぁ、いっぺん名古屋へ出て行って、3年くらいおったかな。こっちへ帰ってきてからは、鶏をはじめたわけ。養鶏もブロイラーをやってみたり、種鶏をやってみたり。この部落でやっとって、中津でもやって、東濃牧場のところにも養鶏場を作ってやっとったな。結構長かったな〜。そらぁもう30年くらいはやっとったんやろなぁ。まだ家内をもらう前からだったから、二十歳過ぎ、22、3歳くらいからかな。」

|鈴村さんと坂折棚田

—— 坂折棚田保存会の設立当初から鈴村さんもメンバーでいらっしゃるんですか?

「そうやな、どれくらい前やな・・・
保存会ができてから、ずっと続けとるよ。いつやった?サミットをやるあれは3年くらい前にできたかな。」

—— 生まれ育ってきたことろを守っていきたいっていう思いから?

「やるぞ!っていうそんな意気込みはなかったけれども、たださ、やっぱり自分で住んどるところ、ほいから耕作しとるところは愛着ができるもんだでさ、うん。そうすると、やっぱりこのいつも見とる景色を、なんとかこの景色をいつまでも残せたらっていう思いはあったわな。」

—— 棚田オーナー制度には、今年も多くの方が参加されたんですよね?

「コカ・コーラ、クラブツーリズムの法人も入れると、今はオーナーが75組おるな。みんなそれぞれ自分とこの田んぼで面倒を見とるんやけど、わしが一番多くて18組。広さはそんなにないけどな。」

—— 多いですね!!やっぱり毎年来る方もいらっしゃる?

「来たなだ隊(オーナー独自のグループ)なんかは、ずいぶんわしんところでやっとるね。」

毎年、鈴村さんを指名してオーナーになる方もいるそう。
「指名があるもんでさ。うちはリピーターが多いわ。ありがたいね。」と、嬉しそうに笑います。
気取らず、誠実で、ちょっとお茶目なところもある鈴村さん。私たち編集部も大の鈴村ファンです。

—— 坂折棚田のお米のおいしさの秘訣を教えてください!

「秘訣はやはり、あれやないかね、こうした環境。結局、水、朝晩の寒暖の差やないかな。差あった方がおいしいわな。
わしはある程度やっぱりこだわって作るもんで、全然味が違うと思うわ。

培管理、わしは堆肥を入れるもんでな。化学肥料はあんまり使わずに堆肥を入れとる。そのかわり手はかかるから。化学肥料のように少量でばーっとやっていけば世話ないけど。

大変なことって言ったら、秋に稲を刈って、はざに干すもんでそれかなぁ。通常の管理はそれほど大変じゃないよ。毎日、休みはあってないようなもん。そのかわりどうでも(どうしても)やらないかんってことでもないから、自由なところもあるよ。急所だけ外さんようにしておけばな。機械を使えば、今は手をかけるきゃないけど、楽をしたら味に出るわな。」

手間ひまかけて作られた坂折棚田米は、粘りがあり甘味が多くおいしいと評判です。おへマガの運営元でもあるNPO法人えなここでも、鈴村さんが育てたお米を使った寒天ご飯シリーズを展開しています。

「坂折の景色は、わしが子どものころと思うとだいぶ変わっとるよ。変わっとるけど、それをいっつもかも見とるとまた慣れちゃうんよ。」

—— “変わっているけど変わった意識はない”
鈴村さんが最初におっしゃった言葉が思い返されます。

一年を通し、鮮やかな四季を感じさせてくれる里山の棚田。
思わず心を奪われる「日本の原風景」と言われるような景色は、決してありのままの自然が作り出すものではありません。

そこには必ず、「人」がいます。
棚田を守ることが景観を守ることであるのなら、そこが人が暮らし続けることが可能な地域でなくてはなりません。
時代と共に、変化しながら守り、受け継いでいく。

今、私たちがいるのも、何百年という流れの途中。
どんな姿で次へ繫げていくことができるのでしょう。
この景色と地域を大切に繋いでいきたい。そんな想いで集う人が、地元にもそれ以外にも増えていけばと思っています。

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坂折棚田 里山の暮らしを体験!
炭焼き塾が開催されます。塾生募集中です。
日 時:2016年1月16日(土)、2月6日(土)
詳細は恵那市坂折棚田保存会のサイトからご確認ください。

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NPO法人恵那市坂折棚田保存会
住 所:岐阜県恵那市中野方町782-1
電 話:0573-23-2032

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